全国最年長市議、91歳山田治雄さん講話全収録/食と健康 予科練特攻



全国の市議会議員で最年長の山田治雄さん(91)=11期44年=が6月21日、熱海市役所いきいきプラザで開かれた「食と健康の公開講座」で講話を行った。太平洋戦争から戦後にかけての食糧事情と90歳を迎えても今なお元気に働き続けられる長寿の秘訣について話した。
「ふじのくに食の都づくり職人」の「海幸楽膳 釜つる」料理長 の内山栄二さんと杉本鰹節商店の杉本隆さんが企画した。齊藤栄市長が駆け付け祝辞を述べた。山田さんが日頃食している健康料理を料理の鉄人、道場六三郎さんのもとで10年以上も修業を積んだ内山さんが再現した料理も味わえるとあって、定員30人はすぐさま満杯。話を聞けなかった方々のために講話の全容をお届けする。今後の食と健康を考える参考に―。
(熱海ネット新聞=構成・松本洋二)


内山栄二「海幸楽膳 釜つる」料理長

■電気が通電したのが昭和12年、水道は昭和37年
私は1927年(昭和2年)生まれ。今年が2018年。差し引くと91歳になるといわれるが、本人にはさして自覚がありません。私の家はいま「かんぽの宿 熱海」があるところにあり、そこで生まれた。電気が通電したのが昭和12年、市の水道が来たのが昭和37年でした。ですから井戸からいい水を汲んで育った。私がこうして健康なのは、おふくろが大変健康に生んでくれたこともありますが、自然条件も非常によかった。
■熱海駅前に尋常高等小学校、生徒数2200人
子供のころは、お菓子屋さんなどそんなになかった。ですから私は山へ行くとビワや山イチゴ、桑の実などを食べて自然とともに育った。私が小学校(熱海町立熱海尋常高等小学校)に入ったのは昭和9年4月。当時学校は熱海駅前にあり、まだ町ですから湯河原町に通う泉地区を除いて熱海中から通っていた。2200人ぐらい生徒がいた。そういう仲間が私を育ててくれた。

■校長先生が住む御用邸を見て毎日通学
熱海の御用邸は昭和6年に熱海町に払い下げられて、町が管理していた。いま話しているちょうどここの場所(市役所)。御用邸には校長先生が住んでいた。私の家は水口町ですから通学路になっていて毎日、歩いて通るのが楽しかった。学校に行くのが嫌だという日は1度もなかった。
■トンネルが開通、一番列車を迎える
昭和9年は丹那トンネルが開通した年。12月1日、小学校の生徒全員がトンネルの東口で一番列車を迎えた。ちょうど小学1年のときですから、これは忘れられないこと。私のおふくろは大磯の出身でそれまで御殿場までいってぐるりと回って国府津までいかないと行かれない。それが直接行けるようになって大変便利になった。
■中学時代は配属将校が毎日軍事教育
当時の町役場はホテル貫一のところにあった。御用邸跡の現在の場所に移ったのが昭和13年。前年に熱海町と多賀町が合併し、熱海市になって市庁舎を竣工した。これが13年6月30日、木造の上棟式の写真です。
やがて戦時下になり、中学に配属将校がいるようになった。私が通っていた中学(帝京商業、杉下茂元中日監督の2年後輩)にも来ていかに軍人になることがいいことか、朝から晩までそういう教育をやる。当時、市役所に兵事課というのがあって、昭和18年8月、私も入隊を申し出た。

■三重海軍航空隊を受験して予科練入隊
10月に志願して三重海軍航空隊(三重県津市)の試験を受け、海軍飛行専修予備学生として翌年(昭和19年)の4月に三重海軍航空隊奈良分遣隊(奈良県天理市)に入隊した。天理教の大きな建物を海軍が収容してそこに練習航空隊を作ったのです。
航空隊の食料は、市中より割合良かった。明日死ぬかもしれない、ということなんでしょうね。甘いものも週に1回配給があった。ただし、野菜が不足した。お椀の中に、ほんの少し野菜が入り、塩で味付け。私はこれを太平洋汁と呼んでいました。
■土浦海軍航空隊に転属
海軍で日曜の外出を外出とは呼ばない。一応、船に乗っているのが原則ですから上陸と呼ぶ。日曜のたびに上陸すると、山へ出かけ、野草の中で食べられるのを探した。野菜がないと健康に良くないからです。お米は食べられたが、肉はなかった。そんな食糧事情の中で厳しい訓練を受けた。昭和20年5月3日、土浦の海軍航空隊に転属になり、途中、熱海を列車で通った。ただ、その時、ひどい肺炎を患っており、みんなに守られて列車で通ったものだから、熱海を通った感激はあまりなかった。
■震洋(しんよう)特別攻撃隊に選抜
土浦海軍航空隊ではすぐに特攻の訓練に入った。飛行機も兵器もなく、私は「震洋(しんよう)特別攻撃隊要員」に選抜された。小型モーターボートの先に爆薬をつけて体当たりする特攻です。しかし、6月4日に呼び出されて「お前は残らなければならない」と。肺炎をやっていたことと私の男の兄弟が私も含めて3人全員が海軍の兵隊。それを配慮したのではないか。しかし、頑張りまして「震洋」の要員になることができた。

■出撃が近づき、熱海から父母が面会に
6月9日の土曜日に父と母が土浦に面会に来た。特攻の前に親に面会させるんですね。日曜日は上陸できる日なので「明日も会える」と言ったら、戦時下だからすぐに帰ると。それが良かった。6月10日、朝食をとって20分ぐらいして警戒警報が鳴り、戦闘状態に入り、外出禁止に。アメリカの爆撃機が近付いたとして、総員退避の命令が出た。
■土浦の軍航空隊が猛爆撃、162名死亡
兵舎には防空壕がなく、近隣の山の中の防空壕へ急いだ。退避する防空壕には400人が入れた。分隊は2つあり、私の分隊が先に入る予定だったが、私はなぜか後から入った。30分ぐらいしたら猛爆撃が始まった。防空壕にものすごく爆弾が落とされて、3発目に防空壕がつぶれた。奈良分遣隊から行った仲間162人が生き埋めになって死亡した。親友だった麻布十番の高橋君のお遺体をひっぱり出したときは、悲しくで悔しくて涙が止まらなかった。
■玄海基地へ転属、特攻の対戦車訓練
6月13日、土浦海軍航空隊から臨時列車で北九州の海軍航空隊玄海基地(福岡県糸島市)に2日間かけて行かされた。しかし、爆撃でやられたあとで食糧が何もない。乾パンだけで2日間。九州へ行ったら野菜が食えるかと期待したが、駄目でしたね。でもお米だけはあった。上陸の日は山へ行って山芋をとった。
7月25日に震洋別攻撃隊の基地がある長崎へ移動せよという転勤命令が出た。しかし、7月20日ごろにその命令が取り消され、今度は特攻の対戦車訓練に入った。敵が本土に入ってくると。そうこうしているうちに8月15日の終戦を迎えた。

■敗戦により特攻訓練中止
なんだかよくわからなかった。負けるということは我々に許されないことだった。山に立てこもろうと計画したが、副司令から中止命令が出てできなかった。復員という名で、帝国海軍から捨て去られた私は、故郷の熱海を目指した。8月24日に貨物列車に乗って博多、下関を通って25日午前4時ごろ、被爆した広島を通った。蒸気機関車だけは通れたが、広島の街は焼け野原で何もなっかった。
■復員し、母から聞いた「兄戦死」に涙
熱海の家に帰ってきたとき、母親から「二番目の兄が戦死した」ことを知らされ、ショックだった。兄弟でも一番年が近く、仲も良かった。憔悴しきった母からそれ以上のことを聞けなかった。
■食糧不足、畑でサツマイモ作り
戦後の食糧事情は話にならなかった。戦時中は一定の配給があったが、大混乱。フスマ(小麦粉を取ったカス)やサツマイモのツルも食糧にしたほど。熱海はあまり畑が多くない。昭和21年から生産割り当てが出たものの、条件がいいところと悪いところがあり、市役所に文句を言いいに行く人もいた。いま熱海葬祭中央斎場があるところが、サツマイモの集荷地で配給の調整などをやらされていた。それが地域の農家に評価され、制度が発足した昭和26年に農業委員に選ばれ、通産35年務めた。土壌の勉強、野菜の生育、種子いろんなことを勉強したことが今日の肥やしになっている。

■政治の師匠は久保田豊代議士
私の政治のお師匠さんは韮山村長から国会議員になった久保田豊代議士(日本社会党)です。東京帝大の法学部を卒業し、経済学部に入学してマルクス経済に近づいて追放された人。久保田さんは中国人俘虜(ふりょ)殉職者について調査されていた。戦時中、日本の労働人口が不足し、中国から強制的に3万8千以上が連行され、6千人以上の方がなくなっている。伊豆の天城一帯は鉱山が多く、日本人囚人と中国人200人が働かされていたそうです。私はその人たちがどういう仕事をさせられ、どのような食事を与えられたかに興味を持ち、1980年代に3度ほど中国に行き、赤十字の協力を得て調査した。

■44年前の昭和50年に市議初当選
市議会議員になりましたのが昭和50年。44年前です。市民が主人公だということ徹底して訴え、日の当らないようなところに徹底的に暖かい日を当てる。そのために「議員として活動する」と。その気持ちは今も同じ。それにはまず自身が規律正しい生活をしなければならない。食事もそうです。
食べる量は少なくなったが、常に野菜中心の食事を心がけている。戦時中に野菜の大切さを知ったからです。朝食は、納豆と豆腐の味噌汁、野菜のおひたし、トマト、自家製ヨーグルトなど。昼は、事務所近くの住吉屋さんの野菜サンドと牛乳を1パック。健康には歩くことも重要。街を歩くといろんな人にお会いでき、大変勉強になる。1日4千歩から5千歩が目標。人間ドッグには毎年行っているが、変化がない。血圧もどちらかといえばやや低め。ほかも普通です。
■おもてなしの心とインターネット
熱海のまちを散歩していて、時々、観光客の皆さんに「どちらから」「熱海をなんで知りましたか」などと聞くのですが、圧倒的に多いのがインターネット。市はこういうところにももっと力を入れ、情報を積極的に提供していく必要がある。熱海は多少宿泊客が増えている傾向はあるが、努力次第でまだまだ伸びる要素がある。大事なのはおものてなしの心。熱海にお出でいただいた皆さんに好感を持っていただくことが大切だ。
(熱海ネット新聞=構成・松本洋二)

■山田さん推奨の健康献立 内山料理長の故郷の安曇野(長野県)のお米と安達太良(福島県)の玄米のブレンド米。イワシの丸干し。ゴーヤとラッキョ、レンコンの酢の物。味噌玉のツミレ入れ味噌汁。自家製ぬか漬けとキャベツ山椒漬け、野沢菜。

■齊藤栄市長 私が風邪をひくと、「あんた、それはたるんでいるからだ、私は風邪をひいたことがない」とカツを入れられる。健康だけでなく、市政についても常にご自身の足で歩き、目で見て耳で聴く姿勢。いつも貴重な提言をいただだき、感謝している。本日は山田さんの歴史、食と健康にまつわるは話を聞かせていただき、大変参考になった。熱海市の貴重な財産。



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