尾崎紅葉祭の1月17日、熱海市東海岸町の「貫一・お宮の像」横で新たに建立された尾崎紅葉記念碑の除幕式があった。幅2・25m、高さ1・2m、奥行き0・6mの白御影石製で、表面に紅葉を写した陶板と、碑文を刻んだ黒御影石がはめ込んである。
記念碑は、紅葉の孫にあたる尾﨑伊策氏(85、横浜市)から、紅葉の功績が一目でわかるような記念碑があってもいいのではないかという提案が熱海市にあり、紅葉生誕150周年の節目となった2017年に制作計画が具体化。陶板と黒御影の制作費は尾﨑伊策氏が負担、土台となる白御影石は熱海市が負担して建立に漕ぎ着けた。
明治の大文豪である紅葉は35歳で早逝(そうせい)したことから、記念碑はもとより、記念館、資料館などが全国どこにもなく、遺族の悲願が第二の故郷である熱海でようやくかなった。「紅葉先生の代表作・金色夜叉は、熱海海岸での貫一とお宮の別れのシーンが話題となり、日本中が熱狂した。以来、熱海の名は全国で知られるところとなり、熱海の海岸は国民の憧れの的となった。今日の熱海温泉の発展、にぎわいの礎を築いた大恩人。我々熱海市民はこれからもこのことを忘れてはならない」と齋藤栄市長。紅葉ゆかりのお宮の松が、あらためて文化資産にとして脚光を浴びそうだ。
(熱海ネット新聞・松本洋二)
■金色夜叉 尾崎紅葉の代表小説。は明治30年1月1日から同35年5月11日まで読売新聞に連載され、熱海の名を全国に知らしめた。
■尾﨑伊策氏(紅葉の孫)の話
文明開化の明治時代は多くの文豪や芸術家を輩出した。祖父紅葉の生まれた慶応3年(1867年)は幸田露伴、夏目漱石、正岡子規が生まれ、去年、生誕150年を迎え、それぞれ故郷で盛大に顕彰された。記念館や資料館をお持ちになり、銅像まで建立されている。
残念ながら、祖父紅葉だけは何一つそういうものがない。理由は35歳とあまり早くこの世を去ったこと。無類の人気作家できっぷの良い江戸っ子気質であったことで、原稿等が全国に散失してしまった。そん中、139人の我々遺族にとって積年の悲願だった記念碑が、第二の故郷とも言える熱海の地で完成したことは無常の喜びだ。
熱海の市民の皆様にはこの気持ちが、理解していただけると思う。願わくば、この記念碑を核として“東洋の真珠”にふさわしいまちづくりをしていただきたい。
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