政策も出そろい、次に首長選びのポイントになるのが、人間力。元ヤンの総長、MBA資格取得の超エリート、国土庁出身の官僚。今回の熱海市長選には大都市を圧倒するタレントが揃った。第1回は「元ヤン総長」田中ひでたか氏を紹介する。
規格外と言う意味では、この男ほど魅力に富んだ政治家も珍しい。「小嵐中学出身」といういまどき珍しい経歴の46歳がなぜ市議会議長を務め、自民党静岡県連の青年局長、さらには全国でたった6人しかいない東海ブロックのトップへ抜てきされたのか。自民党青年局は小泉進次郎衆院議員率いる将来の幹部候補生の集団。この1例をとっても、田中がいかに将来を嘱望されているかが分かる。
統率力のルーツは17歳の少年時代にさかのぼる。当時、熱海には「東静連合」という走り屋集団があり、熱海を拠点に沼津を含む400人ほどが所属していた。今でいう「静岡選挙区6区」を地盤とする東静連合の総長を務めていたのが、スズキGPXにまたがる田中だった。当時の熱海にはブラックエンペラーなど都内などから大規模な暴走族が入り込み、地元の若者との間でトラブルが多くあった。ある意味熱海の若者界の治安を守っていたのが彼らだった。
前後するが、田中が高校へ進学しなかったのは事情がある。学級破壊を懸念する小嵐中側が「番長」の登校を拒み、卒業させたからだ。よくある話しだが、田中もまた中3の2学期から登校していない。ゆえに高校へ進学したくとも、内申書が足かせとなり、受け入れ先が見つからなかった。
同級生たちが高校を卒業する時期、田中も熱海を離れ、上京する。先代の総長がそうだったようにプロのボクサーを目指し、下北沢にある名門金子ジムの門をたたいた。しかし、ボクシング全盛期。寮に空きがなく、思うように練習ができかったことから小田原のコーエイ工業ボクシングジムに移籍、ライセンスを取得した。同期合格者にはあの辰吉丈一郎(世界王者)や山川豊(歌手)がいた。
20歳でジュニアライト級(現在のスーパーフェザー級=57~59キロ)でデビューした。戦績は1戦1勝。後楽園ホールで判定勝ちした試合が最初で最後だった。この試合、熱海の後援者がバス4台で繰り出し、東静連合の後輩たちもオートバイなどで大挙駆け付けた。4回戦の試合にも関わらず、ホールは超満パイ。しかし、この熱気にあふれた会場がその後の田中のトラウマとなった。「元総長」の看板があだとなり、「後輩たちの前で負け姿を見せられない」とリングに上がるをためらい、無敗のまま引退した。
田中には悔いが残る。「あの時、マットに沈んでもいいから自分が納得するまで続けるべきだった」と。その思いが今回の出馬に重なる。「市長選に挑むチャンスが訪れたのに、自分の気持ちから逃げたくなかった」ー。
熱海に戻った田中は22歳で人材派遣会社と飲食店を立ち上げ、9期市議を務めた父・日米露(ひめろ=84)の後継者として30歳で市議になった。6人兄弟の末っ子。兄は今年3月まで熱海市の市民生活部長を務めた田中博。西部地区では圧倒的な実力を誇るファミリーの出身だ。
アウトローの田中がオートバイやボクシングに情熱を注いでいたころ、同じ昭和43年に熱海で生まれ、同学年でもある森田はラグビーボールと参考書を手に青春を謳歌していた。
(編集主幹・松本洋二)
敬称略=次回は森田かねきよ編
【写真】右手のリストバンドには「あたみ愛」のロゴ。こういう隠れた演出が若者を引き付ける
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。